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両統迭立の約束が守られることはなく持明院統

合一が行われるものの、両統迭立の約束が守られることはなく持明院統の皇統が続いたため、南朝の遺臣たちによる皇位の回復を目指しての反抗が15世紀半ばまで続き、後南朝と呼ばれる。彼らの抵抗は持明院統嫡流が断絶した1428年(正長元年)以後、激化することとなる。

1443年(嘉吉3年)には南朝の遺臣や日野一族が御所に乱入し南朝皇族の通蔵主・金蔵主兄弟をかついで神璽・宝剣を一時奪還する禁闕の変が起きる。宝剣はすぐに幕府の手で取り戻されたが、神璽は後南朝に持ち去られたままになる。

後南朝は、嘉吉の乱で滅亡した赤松氏の再興を目指す赤松遺臣によって、1457年(長禄元年)に南朝後裔の自天王・忠義王なる兄弟が殺害され、神璽が奪還されることによって、実質的に滅亡した。
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鎌倉時代初期には、国衙領や、荘園のうち皇室・公家や寺社の領地には、武家の支配がおよんでいなかった。鎌倉時代を通じて、武家の統治機構である守護・地頭に属する武士が、地頭請や下地中分という形で国衙領や荘園を蚕食し始めるようになる。この傾向は南北朝時代に入ると顕著になり、荘園の年貢の半分を幕府に納める半済や、年貢の取立てを守護が請け負う守護請が一般化した。また、鎌倉時代の御家人の3大義務であった大犯三ヶ条(大番催促、謀反人・殺害人の検断)に加えて、刈田狼藉の取締も守護の役務となり、荘園領主は守護の立入を拒むことができなくなった。これらを通じて、土地支配上の武士の立場は、荘官・下司として荘園領主に代わって荘園を管理するだけの立場から実質的な領主へと変化していった。守護は、このような武士と主従関係を結ぶようになり、領国内への支配権を強め、守護大名と呼ばれるようになる。南北朝合一時に国衙領がほとんど残っていなかったのはこのような背景による。なお、荘園公領制が完全に崩壊するのは、南北朝時代よりも2世紀後の太閤検地によってであるが、この南北朝期に既に大きな転機を迎えていたのである。

戦乱により公家や朝廷の政治力が衰え、政治の主導は完全に武家へ移ることになった。また、武家社会でも、それまで当たり前だった全国に分散した所領の支配が難しくなり、分散した所領を売却・交換し、一箇所にまとめた所領の一円化傾向が顕著になる。これに伴い、関東の狭い「苗字の地」から新恩の広い地方へ移り住む例が多くなる。

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2009年06月08日 07:53に投稿されたエントリーのページです。

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