2009年06月30日

文化大革命においては

文化大革命においては、まず共産党指導部に煽動された暴力的な大衆運動によって、当初は事業家などの資本家層が、さらに学者、医師、弁護士などの知識人等が弾圧の対象となった。その後、弾圧の対象は中国共産党員にもおよび、多くの人材や文化財などが甚大な被害を受けた。文化大革命が起こる要因ともなった大躍進政策もあわせると、行方不明者を含めた虐殺数は、推計で約3000万人-約7000万人[1][2]といわれ、これらの政策によって中国の経済発展は30年遅れたと言われている。なお現代中国政治を専門とする政治学者の中嶋嶺雄は中華人民共和国が建国後、起こした人民への弾圧・迫害・虐殺 行為など犠牲者総数は2億人前後に及ぶと推計している[3]。

1966年から10年にわたって吹き荒れた中国の政治混乱の背景には、

1949年の中華人民共和国の建国以来、中国の社会主義建設が不調であったこと
建国の指導者毛沢東が政治的に失脚していたこと
中ソ対立など国際的な社会主義運動の対立
など、さまざまな原因が考えられる。
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文化大革命は大きく3段階に分けられる。第1段階は1966年5月の紅衛兵結成から1969年の第9回党大会で林彪が文化大革命を宣言するまで。第2段階は1973年8月の第10回党大会における林彪事件の総括まで。第3段階は毛沢東の死の直後、即ち1976年10月6日の四人組逮捕までである。

期間については、林彪・四人組ら文革派は1969年の文革呼号の成功までが文化大革命であり、その後は文革路線を維持する継続革命段階に入ったとしているが、一般には周恩来を標的として1976年まで続いた批林批孔運動の時期も含める。

2009年06月12日

精神医学との結びつき

それまでの精神医学の治療法は、ある方法を用いたら病気が良くなった、といった経験則に頼ったものであった。そのため、病理学・病因論・治療理論といったものがなく、根治的な治療もできず、医学の他の領域に比べるといささか科学性が欠けているように見られた。そこで第二次大戦後の精神医学者たちは、すでにそれなりの病理学や病因論を整備していた精神分析学に期待をかけ、かねて排斥していたものに接近してきたのである。
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精神分析学の衰退 [編集]
20世紀後半になると、科学哲学、新行動主義心理学、生物学的精神医学、脳科学などから、精神分析の科学性、客観性、治療法としての有効性に疑問が投げかけられるようになる。抗精神病薬としてのクロルプロマジン「再発見」以来、精神疾患への薬物療法が発達し、精神分析療法で改善が見られない患者が治療できるようになると、精神医学領域における影響力は徐々に衰えていく。
精神分析の影響が大きかったアメリカにおいても、1980年のDSM-III(精神疾患の診断と統計の手引き)以降、神経症の概念が解体される方向に向かい、患者の希望した薬物治療を拒否して精神分析に専念した治療者が、患者との裁判で敗訴した(参照:過誤記憶裁判)こともあって、精神分析医の数は減少した。

21世紀ならびに近況 [編集]
近年、精神医学が薬物療法や、生物学的理論に偏りすぎたことへの反動として、また、摂食障害や人格障害などの薬物療法のみでは治療が困難な疾患については、精神分析の影響が限定的な認知行動療法が適用されつつある。そのため、日本国内においては、精神科の臨床でフロイト当時のままの精神分析療法を使う医師はほとんどいない。ただし、精神科医や臨床心理士などが患者理解のために精神分析の概念を援用することはあるし、口語版精神分析とも呼ばれる交流分析が心療内科や看護、介護の領域で活用されているという現実もある。また一般の人々が抑圧やコンプレックスといった精神分析由来の概念を使用(あるいは誤用)して、自分や他人の行動や心の動きを説明することも、日常生活のなかでよく見聞きする。

概略 [編集]
精神分析学は、人間には無意識の過程が存在し、人の行動は無意識によって左右されるという基本的な仮説に基づいている。フロイトは、ヒステリー(現在の解離性障害や身体表現性障害)の治療に当たる中で、人は意識することが苦痛であるような欲望を無意識に抑圧することがあり、それが形を変え神経症の症状などの形で表出されると考えた。そのため、無意識領域に抑圧された葛藤などの内容を自覚し、表面化させて、本人が意識することによって、症状が解消しうるという治療仮説を立てた。

治療過程の諸現象 [編集]
フロイトは治療において、患者と治療者の間でいくつかの特徴的な現象が観察されるとしている。もちろん、患者・治療者ともに個性を持った人間であるから、これら諸現象がじっさいに常に観察されるわけではない。そこが「科学的再現性がないため精神分析を科学ではない」と主張している立場の論拠の一つともされている。

転移 [編集]
フロイトは、面接過程において、患者が過去に自分にとって重要だった人物(多くは両親)に対して持った感情を、目前の治療者に対して向けるようになるという現象を見いだした。これを転移(Transference)または感情転移という。
転移は、患者が持っている心理的問題と深い結びつきがあることが観察されたことから、その転移の出所を解釈することで、治療的に活用できるとされた。転移の解釈は、精神分析治療の根幹とされている。

逆転移 [編集]
フロイトは、治療者の側に未解決な心理的問題があった場合、治療場面において、治療者が患者に対して転移を起こしてしまう場合があることを見いだした。これを逆転移(Counter Transference)という。
フロイトは逆転移は治療の障害になるため排除するべきものであり、治療者は患者の無意識が投映されやすいように、白紙のスクリーンにならなければならないと考えた。しかし、そうした治療者の中立性に関しては、弟子の中にも異議を唱えたものが多かった。
現代の精神分析では、逆転移の定義はさらに広げられ、面接中に治療者が抱く感情の全てを含むものになっている。そして、逆転移の中には患者側の病理によって治療者の中に引き起こされる逆転移もあり、そうした逆転移は治療的に活用できるとする考えが主流を占めるようになっている。

抵抗 [編集]
心理的問題の解決のために治療者のもとを訪れたにも関わらず、患者が治療過程が進むことを無意識的に拒んでしまうことを抵抗(Resistance)もしくは治療抵抗という。
これは、無意識に目を向けることには苦痛が伴うために起こると考えられている。この抵抗をいかに乗り越えるかが、治療過程の重要な局面となる。

退行 [編集]
高度に発達した精神が、以前に経過してきた地点に回帰する現象を退行(Regression)という。
退行の原因にはいろいろあるが、固着(Fixation)と大きな関係があるとされている。固着はリビドーの相当の量がある発達段階に残されて来ている事を意味するので、固着が強い人ほど内的や外的圧力に容易に屈し、その時点に退行しやすくなり、それだけ自我が脆弱だと言える。健康な人間でも睡眠時、食事、排便時、入浴時などリラックスできる時には軽い退行が起きる。
健康な退行と病的な退行は、その固着点から正常な精神状態に立ち返る事が出来るかどうかで決まる。また、面接過程において自然と精神は未熟な精神の発達段階に退行する事がわかっており、これを治療的退行と呼び、精神分析の治療に欠かせない要素となっている。治療的退行時には患者が平生感じることのない感情や衝動に駆られる事が多い。また動物にも退行が生じることが知られている。

2009年06月08日

両統迭立の約束が守られることはなく持明院統

合一が行われるものの、両統迭立の約束が守られることはなく持明院統の皇統が続いたため、南朝の遺臣たちによる皇位の回復を目指しての反抗が15世紀半ばまで続き、後南朝と呼ばれる。彼らの抵抗は持明院統嫡流が断絶した1428年(正長元年)以後、激化することとなる。

1443年(嘉吉3年)には南朝の遺臣や日野一族が御所に乱入し南朝皇族の通蔵主・金蔵主兄弟をかついで神璽・宝剣を一時奪還する禁闕の変が起きる。宝剣はすぐに幕府の手で取り戻されたが、神璽は後南朝に持ち去られたままになる。

後南朝は、嘉吉の乱で滅亡した赤松氏の再興を目指す赤松遺臣によって、1457年(長禄元年)に南朝後裔の自天王・忠義王なる兄弟が殺害され、神璽が奪還されることによって、実質的に滅亡した。
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鎌倉時代初期には、国衙領や、荘園のうち皇室・公家や寺社の領地には、武家の支配がおよんでいなかった。鎌倉時代を通じて、武家の統治機構である守護・地頭に属する武士が、地頭請や下地中分という形で国衙領や荘園を蚕食し始めるようになる。この傾向は南北朝時代に入ると顕著になり、荘園の年貢の半分を幕府に納める半済や、年貢の取立てを守護が請け負う守護請が一般化した。また、鎌倉時代の御家人の3大義務であった大犯三ヶ条(大番催促、謀反人・殺害人の検断)に加えて、刈田狼藉の取締も守護の役務となり、荘園領主は守護の立入を拒むことができなくなった。これらを通じて、土地支配上の武士の立場は、荘官・下司として荘園領主に代わって荘園を管理するだけの立場から実質的な領主へと変化していった。守護は、このような武士と主従関係を結ぶようになり、領国内への支配権を強め、守護大名と呼ばれるようになる。南北朝合一時に国衙領がほとんど残っていなかったのはこのような背景による。なお、荘園公領制が完全に崩壊するのは、南北朝時代よりも2世紀後の太閤検地によってであるが、この南北朝期に既に大きな転機を迎えていたのである。

戦乱により公家や朝廷の政治力が衰え、政治の主導は完全に武家へ移ることになった。また、武家社会でも、それまで当たり前だった全国に分散した所領の支配が難しくなり、分散した所領を売却・交換し、一箇所にまとめた所領の一円化傾向が顕著になる。これに伴い、関東の狭い「苗字の地」から新恩の広い地方へ移り住む例が多くなる。

2009年04月24日

氷河期

氷河期(ひょうがき)は、地球の気候が長期にわたって寒冷化する期間で、極地の氷床や山地の氷河群が拡大する時代である。氷河時代とも呼ばれる。

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氷河学的には、氷河期という言葉は、南半球と北半球に氷床がある時期を意味する事が多く、この定義によれば、グリーンランドと南極に氷床が存在する現代、我々は未だ氷河期の中にいることになる。過去数百万年に関して言えば、氷河期という言葉は一般的に、北アメリカとヨーロッパ大陸に氷床が拡大した寒冷期について用いられる(アジア地域は氷床が発達せず寒冷な地帯であったらしい)。この意味で言えば、最後の氷河期は1万年前に終了したということになる。この約1万年前に終わった出来事を、文献によっては「最後の氷河期」と記載していることもあるが、科学者の多くは氷河期が終わったのではなく、氷河期の寒い時期「氷期」が終わったとし、現在を氷期と氷期の間の「間氷期」と考えている。そのため、最終氷期終了後から現在までの期間を後氷期と呼ぶこともある。

ここでは、氷河期は氷河学的な意味で使用し、氷河期の中の寒い時期を氷期、氷河期の中の暖かい時期を間氷期と呼ぶ。

過去数百万年は、4万年から10万年の周期で多くの氷期が起こり、これについては研究がさかんに行われている。各氷期と間氷期ではそれぞれ平均気温が異なり、最近の氷期では年平均気温で7-8℃以上低下したというデータもあるが、「気温何度から氷期」というわけではない。その間にも小氷期、小間氷期が認められる。ヨーロッパでは「ギュンツ」、「ミンデル」、「リス」、「ウルム」の4氷期に区分されている。

この長い「氷河時代」が重要なのは人類の進化に並行しているからである。氷期が訪れると海岸線が極端に遠退き、陸上の大部分が氷に覆われる。そのため動植物も激減し、動植物を食料とする狩猟採集生活の人類にとっては、大きな打撃であった。人類(猿人)になる前は樹上生活であったらしいが、氷期の環境で地上生活を始め、2足歩行を開始し人類となったというのが通説である。

2009年04月06日

生の映画音楽と指揮

最近はドイツやオーストリアなどで当時のショスタコーヴィッチの映画音楽などをスクリーン付の生のコンサート形式で上演することが多い。そのための専門のフランク・ストローベル(1966?)などの指揮者が存在し、映像を見ながらそれと合わせる指揮のテクニックはオペラなどの声に合わせるテクニックとはかなり別のものである。ドイツでは更にベルリンの近くのバーベルスベルグに東ドイツ時代からの映画専門のオーケストラが存在する。

しかしながら一般に映画音楽のオーケストラを指揮して録音する場合は、専門の指揮者に頼らないでジョン・ウィリアムスらのように作曲者自らが当たるのが普通である。まず曲を書いた本人が一番わかっていることの他に、指揮者のギャラを節約して少しでも無駄な制作費の予算を使わないためでもある。従がって映画音楽の作曲家は「キーボードの即興技術」のほかに「映画音楽の指揮」という特殊な能力が要求される。

エピソード [編集]

伊福部昭の映画音楽デビュー作 [編集]
映画「ゴジラ」の音楽などで知られる作曲家の伊福部昭は、デビュー映画「銀嶺の果て」において、楽しい場面に悲しい音楽をつけて監督の谷口千吉と対立したことが知られている。映画の一部分だけでなく全体を見渡して音楽的表現を考えての決断であり、最終的には伊福部のアイデアがそのまま取り入れられた。これについては伊福部昭の項に詳しく書かれているので、そちらを参照されたし。

黒澤明と武満徹 [編集]
黒澤明は、映画の脚本段階から既存のクラシック音楽などの曲を既にイメージ曲として想定している事も多く、作曲家にはそのイメージに沿った音楽を作ることを求めた。(「影武者」以降はラッシュフィルムにそれらの音楽を付けた状態で作曲家に見せている。)

「乱」においては「ノヴェンバー・ステップス」を聞きながら脚本を執筆していた黒澤は、事前の打ち合わせでは日本の伝統音楽のようなイメージでと要望し、武満もそのつもりで用意していた。ところが実際にはマーラーの交響曲(「大地の歌」や「巨人」)を指定される事になり、そのような既成曲で作曲に枠をはめられる事を嫌った武満は、一時は降板を申し出るほど激しく対立した。

かたや映画界の天皇と呼ばれ、かたや現代音楽において日本を代表する世界的な大作曲家だったため、両者とも互いの意見を主張し、争いは容易に収まらなかった。最終的に武満が、黒澤のイメージに近づいて譲歩したものの、黒澤に対し「今後あなたの映画には関わるつもりはない」と言って袂を分かった。ただし、武満が一方的に譲歩したわけではなく、黒澤が武満に折れた部分もある。三の城の炎上シーンで黒澤は「大地の歌」の「告別」のように女声ソロを入れるつもりであり、演奏はロンドン交響楽団でと強く望んでいたにもかかわらず、いずれも武満の反対で変更されている。武満が作詞作曲した「明日ハ晴レカナ曇リカナ」は、この「乱」のダビング終了後に「黒澤組の歌」として自らピアノの弾き語りで披露したもの。天気の心配をしている歌詞は、映画のロケ撮影の天気の心配であるのはもちろん、黒澤監督の「ご機嫌」の心配をしながら仕事をしている黒澤組スタッフの事でもある。

ジョブコー ダーポポ プライ オール ハンドグ フェア はずたか タフガ シミュレ 冬の花 ポテト トゥー ハンカ ハシェマ やまふじ インレット ゆずの里 カガシ マンシェ ナサラ ヌクレ 検索モミ カラカス スピー オリジナ 水菜 ビジョン ズーム マウンテ ドレス トカマク ムギセ ベニバ グラソース キング コード オパール オーセン クール ランボ たてじょう ブラゾーン おおみ リンス バロキ スノー ドウェー プレス プロペ いぬまき

2009年03月22日

キャラクターグッズ専門店

キャラクターグッズ専門店(キャラクターグッズせんもんてん)は、マスコットや漫画・アニメなどのキャラクターグッズを専門に販売する小売店である。
バゲット クス ポイント ヌガー ソリッド 一石二鳥 ミックス ランウエー アヨーチン ブルペン ステーク ドンファン フィル 検索クワ ギガス おじまじ タンポン カレンシー ぼうふう トリグ シャーマン シシャパ キトサン タウリン フィー リーキ シシカバブ バーガー モダンアート セントラ ヒンドゥー フレッ サイゴン 王様検索 フルネュ ナロー ひみつり オーバ カーフェリ サーベイ レジェンド サー油 マイタ かぶらや デミタ ラジエ スター ダンサー テンキー イニング

キャラクターグッズ専門店の例 [編集]
サンリオショップ
ディズニーストア
ポケモンセンター
ジャンプショップ
スヌーピータウンショップ
ファングッズやファンアイテムと呼ばれることもある。キャラクターの絵柄入りの商品をさす。

文房具
下敷き・メモ帳など。
携帯ストラップ
ラミネートカード
ピンバッジ
マグカップ
テレホンカード・図書カード
ポイントサービスのポイント交換の景品となっていることも多い。
トレーディングカード
ぬいぐるみ
フィギュア
カプセルトイ
食玩
ポスター・カレンダー
店頭POP用のポスターも使用後に販売していたり、抽選等でもらえることがある。
Tシャツ
抱き枕

2009年03月07日

ヒューストン (軽巡洋艦)

ヒューストン (USS Houston, CL-81) は、アメリカ海軍の軽巡洋艦。クリーブランド級軽巡洋艦の1隻。艦名はテキサス州ヒューストンに因む。その名を持つ艦としては3隻目。

ヒューストンは当初ヴィックスバーグ (Vicksbourg) の艦名でバージニア州ニューポート・ニューズのニューポート・ニューズ造船所で起工し、1943年6月19日にC・B・ハミル夫人によって命名、進水した。1942年3月1日に戦没した重巡洋艦ヒューストン (USS Houston, CA-30) に敬意を表して、ヴィックスバーグは1942年10月12日にヒューストンと改名された。1943年12月20日、艦長ウィリアム・W・ベーレンス大佐の指揮下就役した。
じんのおび トップライト テドラル なかよし ナベラル モルグ ベニデュ ムード フォワグ ビアガ 芽キャベツ セーラー ローレライ ビーフ シャッター トリノ むぐらふ ノッポ リップ チェン デコレータ サカユ ききょう キウイ デッド ハイウェイ ブロック シリーズ フィクシ ミレニアム リチェ リスチン かくぐう ラウィ フワン フラグ サーチトゥ ニック スポット レーベル 迷い道 カエサ タピオカ リトライ オブソ ソフトテニ ナンス カシミ プルーン おびひろ

ヒューストンは1944年2月1日にノーフォークを出航し、カリブ海へ整調に向かう。ボストン沖での訓練後、4月16日に太平洋へ向けて出航した。

パナマ運河およびサンディエゴを経由し、5月6日に真珠湾に到着したヒューストンは、さらなる訓練の後5月31日にマジュロ環礁に到着、マーク・ミッチャー中将率いる高速空母任務部隊に合流した。ヒューストンは部隊と共にマリアナ諸島への攻撃を行い、大規模な上陸作戦の援護や太平洋の島々に対する重要な作戦に参加した。1944年6月5日に出撃し、空母部隊の護衛として6月12日、13日にマリアナ諸島を攻撃、15日、16日には小笠原諸島を攻撃した。

戦後
ニューヨークでの入渠中に太平洋戦争は終結した。ヒューストンは広範囲に及ぶ修理の後、1945年10月11日にニューヨーク湾から出航した。カリブ海での回復訓練後、ロードアイランド州ニューポートを拠点として訓練演習を行う。1946年4月16日にヨーロッパおよびアフリカへの親善訪問に向けて出航、スカンジナビア、ポルトガル、イタリア、エジプトの各都市を訪問した。

ヒューストンは1946年12月14日に帰国し、その後訓練および即応演習に参加、1947年5月17日に第12巡洋艦隊と共に出航し地中海の巡航に向かう。1947年8月16日にフィラデルフィアに帰還し、12月15日に予備役となり、10年以上保管される。ヒューストンは1959年3月1日に除籍され、スクラップとして処分された。

2009年02月18日

一式半装軌装甲兵車

一式半装軌装甲兵車 ホハ(いっしきはんそうきそうこうへいしゃ ほは)とは、第二次世界大戦において大日本帝国陸軍が使用した装甲兵員輸送車。「半装軌」とは本車が半装軌車であることを示す。
チャージ タラソ パント トレード 赤ランプ ヒョウ ナブラ ブルマナ スラト トムトム あしたば おれたち シュズ ルームメ カミオ シシュフ パナマ ダウン すだち ダイナ オカル チンギス リージア ネオジ つるが リニティ バップ オロシ かいづか あつま 石榴 ジエンド プレッ ラウンジ ドロップ ビクー ひらら ビノク シェーカー ラタトゥ 麦わら イキシア パッチ ウイロ 麦わら帽子 単発ガ ネイビー ライフ ムスリム ロベリア

日本陸軍は戦前から装甲で覆われ、装軌式(無限軌道を装備)の車両を研究していた。1933年(昭和8年)には九二式重装甲車の足回りを使用した試製装軌自動貨車 TCが試作され、試製装軌自動貨車 TE(1934年)、試製装甲兵車 TG(1935年)と続いた。

初めてモノになったのは試製九八式装軌自動貨車(1938年)であった。名称こそ「試製」と試作扱いだったが性能がよく、量産されたものが部隊に引き渡された。

この成功を受け新たに開発されたのが本車である。但し部内では「装軌(全キャタピラ)」か「半装軌(ハーフトラック)」かという論争が起き、本車と同時に一式装甲兵車 ホキも開発、制式化されている。

本車は1941年(皇紀2601年)に制式化された。「一式」は皇紀の下2桁を取っている。最高で50 km/hを出すことができ、最大で12 名の兵士もしくは2 t の貨物を搭載できた。

但しこの時期に開発された他の軍用車輌同様、軍部が少ない資源や人員、予算を航空機や船舶に重点的に振り分けたため、実際に量産が開始されるのは1944年(昭和19年)になってからである。生産された車輌は軍が「決戦場」と定めたフィリピン、あるいは中国大陸に送られたがとても十分な数とは言えず、途中で輸送艦ごと沈められた例も少なくない。

結局、ドイツ軍でSd Kfz 250やSd Kfz 251、アメリカ軍でM3が大量に使われたのとは対照的に、大戦に於ける日本軍兵士の移動手段は基本的に徒歩に拠らざるを得なかった。輸送車輌そのものが少ないという以前に、自動車免許取得者が少ないという時代だったのである。

戦後、本土決戦用に内地にとどめ置かれた本車は大部分が解体されたが、一部は生き残り、戦後復興に一役買っている。一例として東京都では本車を改造したものがゴミ収集車として使用されていた。

また、本車を製造していた日野重工では、終戦後の民需転換のために本車のエンジン・シャーシを利用して大型のトレーラー式トラックやバスを製造した。

2009年01月28日

金ヶ崎の戦い

金ヶ崎の戦い(かねがさきのたたかい)は戦国時代の合戦のうちのひとつ。

金ヶ崎の退き口(かねがさきののきくち)または金ヶ崎崩れとも呼ばれ戦国史上でも有名な撤退戦のひとつ。
サイコ チューブ イニシャ コムデ ティーチ カクレミノ ビヨウ クロの景色 シェード テスト プラコ ノーヒッタ チャンピ シンタ シンパシー ジストニア カオリン リール ハイラ ガーター バブリ アセロ ダガナ くしがき ヒロイズム マジック さじ日本 テスラコイ ナイトツア トリップ でぃるは パーゴラ あせろら ファルス オーバ オーソラ ネイリ ビルジ マッチ ライト トスト チっつぐ ジャカー 真実の泉 フレッシ ミゼット レーション ケルシ 無情 ブーツ

元亀元年(1570年)4月20日、織田信長・徳川家康連合軍は3万の軍(『言継卿記』)を率いて京都を出陣。織田軍の武将のほか池田勝正・松永久秀と言った近畿の武将、公家である飛鳥井雅敦・日野輝資も従軍している。

結果から言えば越前遠征に向かったわけだが、「越前へ手遣い」(『多門院日記』)とする文面のほか、「若州へ罷り越す」(『言継卿記』)と言う史料もあり、信長から毛利元就に当てた書状(『毛利家文書』)にも「若狭国武藤に圧力をかける」という意味の文面から見ても、口実は若狭攻めであった。

経過
4月25日、越前国の朝倉義景領に侵攻した織田徳川連合軍は、同日の手筒山城を皮切りに敦賀郡の朝倉氏側の城に攻撃をかけ、翌26日には金ヶ崎城の朝倉景恒を下す。これに対し、朝倉軍は敦賀郡を半ば放棄するように戦線が狭く防御に向いた地形である木ノ芽峠一帯を強化し、防衛体制を整える。これには、敦賀郡の郡司で一門衆筆頭であった朝倉景恒と、本家である朝倉義景や、同じ一門衆である朝倉景鏡・朝倉景健らとの序列争いが背景にあり、景恒への援軍を故意に遅らせたとする説もある。

このように当初は織田方が優勢に合戦を進めていたが、信長の義弟である盟友北近江国の浅井長政が突然裏切り、織田・徳川軍は越前と北近江からの挟撃という危機にみまわれた。織田軍が長政の裏切りを察知した理由については、近江・若狭方面の外交・諜報を行っていた松永久秀が浅井方の不審な動きに気づいて通報したと朝倉記には記載があるが、信憑性に疑問が持たれており実際には不明。お市の方が、両端を紐で結んだ小豆袋を信長に送り長政の裏切りを知らせたと言う逸話が知られているが、俗説のようである。

通説ではこの時殿軍に自ら名乗りをあげたのが、木下秀吉(後の豊臣秀吉)であったと言われている。しかし、実際は殿軍に摂津守護の池田勝正がいたため、秀吉が殿軍の大将だったとは考えにくい。勝正は信長の家臣団を率いても問題のない人物であるため、機動力の高い織田家馬廻衆に二匹両旗など朝倉軍に奪われた場合に将軍家の権威が失墜するおそれのあるものを持たせて逃がし、本隊を池田勝正が率いて撤退戦を行ったとみられている。

織田信長が撤退した後の織田諸将の行動は非常に統率のとれたものであり、朝倉軍につけいる隙を与えず撤退時の被害を最小限に食い止めた。

戦後
信長は近江豪族の朽木元綱の協力もあり、越前敦賀から朽木を越えて(朽木越え)、京へ逃げ延びた。京都への到着は30日。供はわずか十人程度であったという(『継芥記』)。池田勝正率いる織田本隊も撤退に成功し、京へとたどり着いた。信長は論功行賞で秀吉の貢献を称えて黄金数十枚を与えた(他の武将の恩賞については伝わっていない)。

なお、朽木は当初信長を殺すつもりでいたが、松永久秀が朽木を必死の決意で説得したためやっとの事で京に帰還できたと朝倉記にはある。

総論
初期段階では織田軍の勇戦が目立つ戦いであった。しかし、まだ研究段階ではあるが、朝倉義景が近江六角氏からの養子であったとする説があり(朝倉義景の項を参照)、そのために朝倉家内部が必ずしも一枚岩ではなかった結果、もたらされた戦果である可能性も否定できない。

また信長が無事逃げ延びたのは池田勝正の統率力と明智光秀や木下秀吉らの命がけの戦いのおかげであったが、朝倉本隊・朝倉義景軍の追撃の動きが鈍かった事も大きな要因になったと言われている。これに対し、朝倉軍の追撃はごく一般的な速さであったが、それ以上に信長軍の撤退が迅速であったために十分な追撃が行えなかったとの説や、織田軍の統率がとれていてつけいる隙がなかったという説、上記のような朝倉家内部の問題があったとする説などある。

石山合戦(いしやまがっせん)は、元亀元年9月12日(1570年10月11日)から天正8年8月2日(1580年9月10日)にかけての、浄土真宗本願寺勢力(一向一揆)と織田信長との戦い。本願寺門主の顕如が石山本願寺に篭って戦ったことから石山合戦と言われる。石山戦争ともいう。

広義では、元亀元年9月12日の石山挙兵から天正8年8月2日の顕如退去までの11年(10年間)を指すが、天正8年閏3月7日(1580年4月20日)に本願寺は大坂退去の誓紙を信長に届けて戦闘行為を休止したことから、閏3月7日を終わりとすることもある。

戦国時代最大の宗教的武装勢力である本願寺勢力と、天下布武を目指す織田信長との軍事的・政治的決戦であり、石山合戦の終結と同時に、各地の一向一揆はその勢いを著しく失った。また、江戸時代に本願寺勢力が分裂する遠因ともなった。

本願寺勢力という言い方は、本願寺派とすると現在の浄土真宗本願寺派(西本願寺系)と混交するためである。以下の文中においては単に本願寺と記す。

大坂石山本願寺は、もとは本願寺8世の蓮如が隠居先として選んだ場所であり、大坂御坊(石山御坊)と呼ばれた。畿内では本願寺は京都山科を本拠としていたが、一向一揆を背景として本願寺の影響力が強くなると、その武力を恐れた細川晴元は日蓮宗徒らと結託し、天文元年(1532年)8月に山科本願寺を焼き討ちした(山科本願寺の戦い/天文の錯乱/天文法華の乱)。これにより山科は廃墟となり、本願寺は本拠を新たに定めなければならなくなった。本願寺は当時、加賀に大きい勢力を持っていたが、加賀は信者の往来には不便であり、京都からも遠かった。また、山科焼失の前年に大小一揆と呼ばれる本願寺一門内の内戦を大坂で起こしており、現地の門徒の間には本願寺への不信感があった。そこで、10世の証如は京都に近く、交通の便の良い大坂御坊を本願寺の本拠とし、石山本願寺と改称した。こうして、石山本願寺は本願寺の本拠として発展した。

細川晴元は石山の発展も恐れ、たびたび石山を攻撃したが、石山は小高い山や川が多く守りに適した土地であり、また山科を教訓として本願寺が軍備を進めていたために、まったく戦果を挙げられなかった。晴元以外の時の権力者も石山の武力を恐れ、同盟を結ぶなどして本願寺との戦火を避けた結果、本願寺の権力は年々増大し、11世の顕如が准門跡(門跡は皇族・貴族が僧籍に入り住職となる際の呼称)になるなど、中央権力との結びつきが強くなった。

そんな中、1568年に織田信長が足利義昭を擁して上洛に成功した。足利義昭は室町幕府13代将軍足利義輝の弟であり、義昭が信長の武力とともに京都に入ったことで、将軍の地位は14代義栄から義昭に渡ることが確実になった。信長は、上洛した勢いと義昭の権威を背景として、上洛してすぐに畿内をほぼ制圧した。信長は教行寺など畿内の本願寺系末寺に矢銭を要求し、応じない場合には攻撃した。さらに、信長は本願寺に「京都御所再建費用」の名目で矢銭5000貫を請求し、石山からの立ち退きも要求したが、顕如はこのうち矢銭の請求のみを受け入れ支払った。

1569年半ばから、足利義昭は勝手な行動が目立つようになり、信長との仲はだんだんと険悪になって行った。1570年、信長は顕如に再度の立ち退き令を出したが、顕如も頑として譲らなかった。そのため、本願寺と信長の間は険悪になり、逆に義昭と本願寺が接近するようになった。信長は、この年の9月に三好氏征伐を決行する。これは、名目上は前年正月に三好氏が京都を攻めたことへの報復であったが、信長自身「三好氏の次は本願寺だ」という発言があったとされており、その本当の目的は本願寺への脅迫であった。また、当時義昭によって京都を追われていた石山本願寺を頼っていた近衛前久も顕如に三好氏支援を進言した(ただし、前久の「反信長」は表向きは未だ信長が擁立した形となっている義昭の排除が目的であり、義昭が信長によって追放されると京都に帰還して一転して信長派の中心人物となる)。

合戦の流れ

淀川堤の戦い
元亀元年(1570年)9月12日に顕如は「信長は本願寺を取り潰す仏敵である」として本願寺門徒に檄を飛ばし、三好氏攻略のために摂津福島に陣を敷いていた織田軍を突如攻撃した。そのまま本願寺軍は石山を出て、14日に淀川堤で信長軍と直接激突した。この戦いは織田軍優勢のうちに終わり、本願寺軍は石山に戻り篭城の構えを見せた。織田軍は既に四面楚歌の状態であるため、石山に監視のための軍を置くと、朝廷に働きかけて本願寺軍に矛を収めるよう勅書を出すなど、本願寺との戦闘を避けた。そのため、石山本願寺の第一次挙兵は、実は1月もたたないうちに実質的には終わったのである。

この時の詳しい戦いの様子は野田城・福島城の戦いを参照。

石山挙兵とほぼ同時に長島願証寺で一向一揆が発生(長島一向一揆)し、信長の弟信興が守る尾張の小木江城を滅ぼすなどして公然と信長に敵対するようになると、元亀2年(1571年)5月に信長は長島殲滅を図るが失敗し、多数の兵を失った。この年の一向一揆に対する戦果は、9月に一向一揆の篭る志村城・金ヶ森城を降伏させたに留まる。また、元亀3年(1572年)に信長が京都に自身の屋敷を建てた際には、3月に顕如から万里江山の一軸と白天目の茶碗を贈呈されている。7月には家臣に一向宗禁令を出すなど緊迫したが、これは武田信玄の仲介という形で和議を結んでいる。元亀4年/天正元年(1573年)に信長は再度長島を攻めたがまたも失敗した。11月には白天目の茶碗を贈られたことに対しての謝礼をしている。

ただし、兵力を出して戦火を交えてはいないものの、いわゆる情報戦は非常に盛んであった。顕如は遅くとも1572年末ごろまでには、武田信玄や毛利氏などと密かに同盟を結んでおり、信長を東西から挟撃しようと画策している。足利義昭もこの流れに乗って信玄に上洛を促すなどしている。当然、信長もそれを牽制するために、朝廷外交や上杉謙信への友好工作などを行っている。したがって1573年末までは、石山本願寺と信長は互いに牽制しつつも戦火を交えない、いわば冷戦よりややましな程度で推移していたと思われる。

長島・越前一揆殲滅
1573年、信長は朝倉氏と浅井氏を相次いで滅ぼし、朝倉氏の居城のあった越前には前波吉継を守護代に任じて統治させた。しかし、吉継は粗暴な振る舞いが多くなり、翌年の1月に富田長繁ら国人領主と結んだ一向一揆によって殺された。さらに一向一揆と結んだ国人領主も次々と一揆の襲撃にあい越前は一向一揆のもちたる国となった。これにより、信長はせっかく得た越前を一向宗に奪われることになった。

これを知った顕如は、はじめ七里頼周を派遣し、その後下間頼照を越前守護に任じた。こうして本願寺と信長の和議は決裂し、4月2日に石山本願寺は織田家に対し再挙兵した。

本願寺は長島・越前・石山の3拠点で信長に敵対していたが、この弱点は互いに半ば独立して軍政を敷いていることであった。信長はそれを最大限に活用して各個撃破にでた。7月、信長は大動員令を発して長島を陸上・海上から包囲し、散発的に攻撃を加えるとともに補給路を封鎖して兵糧攻めにした。長島・屋長島・中江の3個所に篭った一揆勢はこれに耐え切れず、9月29日には降伏開城した。しかし、信長はこれを許さず長島から出る者を根切に処し、残る屋長島・中江の2個所は柵で囲んで焼き殺し、指導者であった願証寺の佐堯は自害した。

天正3年(1575年)には、信長は包囲網の一角である武田勝頼を長篠の戦いで破り、兵を十分に休めた後で動員令を発し、8月12日に越前に向けて進発した。一方越前では、下間頼照ら本願寺から派遣された坊官らが重税を課した事などにより、越前で一揆をおこした民衆との関係は悪化し、坊官の専横に反発し一揆が起こるという一揆内一揆まで起きた。

こうした一向宗内部の混乱に乗じ織田軍は連戦連勝で瞬く間に越前を制圧し、さらに「百姓の持ちたる国」加賀の南部まで攻め込んだ。9月には信長は北の庄に戻り、さらに岐阜へと戻って石山を牽制した。

本願寺3拠点の2つが撃破され、特に長島では徹底的な根切を行ったことを知った石山本願寺は、顕如が信長に対して自らの行為を侘び、さらに条目と誓紙を納めることで信長と再度和議を結んだ。しかし、前回の和議とは異なり、信長が「今後の対応を見て赦免するかを決める」とするなど、著しく信長に有利な状態での和議となった。(実際には、信長はまだ上杉・武田・毛利に挟まれており、信長にとっても和議は軍事上悪い話では無かった)。

木津川口海戦
天正4年(1576年)春、顕如は毛利氏に庇護されていた将軍足利義昭と与して三たび挙兵した。信長は4月14日、明智光秀らに命じて石山本願寺を三方から包囲した。しかし、包囲後も本願寺は楼岸(現大阪市中央区)や木津(同浪速区)から海上を経由して弾薬・兵糧を補給しており、信長軍が木津を攻めると、本願寺軍は逆に一万を超える軍勢をもって木津の信長軍を蹴散らし、天王寺砦付近まで攻め入った。この敗報を聞いた信長は、すぐさま諸国へ陣触れを発したが、突然のことであるために兵の集結が遅かった。そのため信長は痺れを切らし、三千ばかりの兵を連れて天王寺を包囲している一万五千余の本願寺軍に攻めかかった。また、包囲を突破して砦に入ると、すぐさま砦内の兵と合流して討って出た。そのため、篭城策を取るものと思い込んでいた本願寺軍は浮き足立って敗走し、石山本願寺に退却した(天王寺合戦)。その後、信長は石山本願寺の四方に付城を、住吉の浜手に要害を設けて本願寺を完全包囲下に置いた。

経済的に封鎖された本願寺は、毛利輝元に援助を要請した。輝元は要請に応じ、7月15日に村上水軍など毛利水軍の船七、八百艘(実際は六百艘程度と言われる)が兵糧・弾薬を運ぶために大坂の海上に現れた。信長軍はすぐさま、配下の九鬼水軍など三百余艘で木津川河口を封じたが、毛利水軍は数の利を生かして火矢や焙烙玉(中に火がくすぶっており、目標に当たると中身が出て一気に燃え広がる武器)で信長軍の船を焼き払い、大勝して本願寺に兵糧・弾薬を届けた(第一次木津川口海戦)。信長は仕方なく、三方の監視のみを強化して一旦兵を引いた。

翌年の2月2日、本願寺に協力していた紀伊の雑賀三緘衆と根来寺の杉の坊が信長軍への内応を約束した。これを受けて、信長は準備を整えた上で2月13日に京都を出て、対抗する雑賀勢の篭る和泉・紀伊に攻め入った。山手・浜手の二手に分けて攻め入る方法が功を奏し、大きな損害もなく紀伊に攻め入った信長は、3月1日に雑賀衆の一人である鈴木孫一の居城を包囲し攻め立てた。しかし、この攻勢で周辺一帯が荒れ果てたため、事態を憂慮した雑賀衆が翌日に大坂での事に配慮を加えることを条件に降伏を申し入れたため、信長はこれを受け入れて兵を引いた。

木津川での敗戦後、信長は九鬼水軍の長である九鬼嘉隆に燃えない船を造るように命じ、嘉隆は船の外装に鉄板を貼った鉄甲船の建造を進めていた。また、それとは別に滝川一益にも白仕立ての大船の建造を命じており、天正6年(1578年)6月26日、鉄甲船六隻と白舟一隻の計七隻を中心とした船団が熊野浦から大坂沖に向けて出航した。本願寺はこれを迎え討つべく、淡輪(現大阪府岬町)でこの船団を小船で取り囲み、鉄砲や火矢で攻撃した。しかし、嘉隆はこれをあしらうように応戦し、大砲も使って敵船の多くを撃沈した。これに恐れをなした本願寺は、船団に近寄ることすら躊躇うようになり、船団は7月17日に難なく堺に着岸し、翌日から石山本願寺への海路を封鎖した。

11月6日、毛利水軍は六百余艘を繰り出して再び木津川河口に現れた。信長軍は九鬼嘉隆の鉄甲船を中心として立ち向かったが、毛利水軍はまたも火矢や焙烙玉で積極果敢に攻撃を繰り返した。しかし、嘉隆は淡輪での戦いと同様に、鉄甲船を相手の大将が乗っていると思われる舟に近づけては大砲を打ち込んで撃沈するという方法で相手を打ち崩し、ついには毛利水軍の舟数百艘を木津沖に追い返すことに成功した(第二次木津川口海戦)。本願寺はついに完全包囲下に置かれて孤立する事態になった。

講和
天正6年10月、摂津における石山本願寺討伐の要であった荒木村重の離反によって信長の対石山本願寺戦略に重大な狂いを見せた。これを機に信長は朝廷を動かして和解をする事を試みる。朝廷は信長の希望を受け入れて勅使を送ったものの、本願寺は毛利氏の賛同が無いと応じられないとしてこれを事実上拒否したため交渉は決裂した。これを受けて信長は毛利氏とも講和する事を決め、毛利氏への勅使が派遣される事になった。しかしその直後、第二次木津川口海戦において織田水軍が大勝すると信長は和平交渉を中止し、村重攻略を進めた。また、村重の反乱自体が周辺の織田方武将の呼応を伴わなかったために、反乱自体は長期にわたったものの石山本願寺攻略への影響は最小限に留まった。

第二次木津川口海戦での毛利水軍敗退を受けて本願寺は将来の弾薬や食料の欠乏を恐れ、天正7年(1579年)12月、ついに恒久的な和議を検討するようになり、密かに朝廷に先年の和解話のやり直しの希望を伝えた。その動きを期待していた信長側でも再度朝廷に講和の仲介を働きかけていた。そのような状況の中で翌天正8年(1580年)3月1日、朝廷は本願寺へ勧修寺晴豊と庭田重保を勅使として遣わして年寄衆の意向を質し、本願寺は和議を推し進めることで合意した。また、信長も別箇に開戦の経緯を知る近衛前久を派遣して本願寺側との妥協点を探った。以上の経緯から「勅命講和」という方式での和議を提案したのは信長側であったが、実際の講和申し入れは本願寺側からあったものと言える。

閏3月7日、本願寺は信長に誓紙の筆本を提出し、信長と本願寺は三度目の講和を果たした。

4月9日、顕如は石山本願寺を嫡子で新門跡の教如に渡し、紀伊鷺森に退去した。しかし、妻子を石山に届けられる兵糧で養っていた雑賀や淡路の門徒は、この地を離れるとたちまち窮乏してしまうと不安を募らせ、信長に抵抗を続けるべきと教如に具申し、教如もこれに同調した。故に、顕如が石山を去った後も石山は信長に抵抗する教如勢が占拠しており、石山を手に入れるという信長の目的は果たされなかった。

7月2日、顕如は三人の使者を遣わして信長に御礼を行い、信長もそれに合わせて顕如に御礼を行った。これと前後して荒木村重が花熊城の戦いに破れ去るなどの情勢悪化や近衛前久の再度の説得工作によって石山の受け渡しを教如派も受け入れて雑賀に退去し、8月2日に石山は信長のものとなった。引き渡し直後に石山本願寺は出火し、三日三晩燃え続けた火は石山本願寺を完全に焼き尽くした。これは退去を快しとしなかった教如方が火を付けたと噂されたが(『多門院日記』)、『信長公記』では織田方の過失による失火とされている。

その後の影響
閏3月の講和時、本願寺はまだ1年程度は戦えるだけの余力を残して和議に踏み切ったため、信長は本願寺の軍事力を刺激するようなことは極力避けねばならず、相当の配慮をしなければならなかった。しかし、顕如退去後に長男の教如が講和に反して石山を占拠したため、本願寺は顕如と教如の2派に分かれ、顕如は誓約違反を問われることになってしまった。結局、教如も石山を出ることで内紛には決着がつき、天正10年6月信長の死の直後に顕如と教如は朝廷の仲介により和解するが、顕如は内紛の核となった教如を廃嫡し三男の准如を嫡子と定めた。文禄元年(1592)11月、顕如が死没すると豊臣秀吉の命で教如が本願寺を継ぐが、如春(顕如の妻・教如の母)らが顕如の遺志にもとづき秀吉に働きかけたため、翌年に教如は隠居させられ弟の准如が跡を継いだ。 慶長7年(1602年)、徳川家康はこの亀裂を利用して本願寺勢力の弱体化を図り、教如に東本願寺を立てさせたために本願寺が東西に分かれることとなった。

序文で述べているが、石山合戦は当時最大の宗教一揆でもあったため、それが終結したことで各地の宗教一揆は激減することになった。石山の次に大きい一揆であった加賀一向一揆は、石山合戦終結後1年もたたない天正8年(1580年)11月17日に柴田勝家に諸将を討ち取られ、「百姓の持ちたる国」の終焉を迎えた。そのため、石山合戦以降は宗教の非武装化がより一層加速され、宗教団体が独立性を失い政権の統制下に置かれる事となった。これが日本における政教分離の基礎となったとする見方もある。

2009年01月20日

華道の代表的流

五十音順

池坊(いけのぼう)開祖・池坊専慶が京都の六角堂池坊の僧侶だったことに因む
いけばな京花傳(いけばなきょうかでん)
小原流(おはらりゅう)
いしゅく モルゲン ソニック サシン プラウザー チャプ ノビル すいたい イルク トンブ じゅんさい エンジンシ テクニ クロス リーファ 青皮栗 きんし リターン ラリマール セリバシー ステンド トローク モーグル イヌツゲ リズム バスタブ スペース たまねぎ SEOハツ アオクサ ショット アップ オートモ ファイト リケッチア ぬく森 吾亦紅 ビリンビン ガロン ハナズオウ シェー シュピ へいどん ゲーター カレッジ レジデ カヌー マウンテン はなさか ハハコ

華道遠州(かどうえんしゅう)江戸後期のマルチアーティスト・茶人の小堀遠州公を祖とする
華道表現派(かどうひょうげんは)
華道高野山(かどうこうやさん)
古流理恩会(こりゅうりおんかい)
古流かたばみ会(こりゅうかたばみかい)
古流松應会(こりゅうしょうおうかい)
古流松藤会(こりゅうしょうとうかい)
嵯峨御流(さがごりゅう)
石州流華道(せきしゅうりゅうかどう)
松月堂古流(しょうげつどうこりゅう)公家の末裔、植松子爵家により相伝されている流派
専慶流(せんけいりゅう)
相阿弥流(そうあみりゅう)
草月流(そうげつりゅう) 
月輪未生流(つきのわみしょうりゅう)皇室の菩提寺『泉涌寺』に伝わるいけばな 
八代流(はちだいりゅう)
未生流(みしょうりゅう)
未生流笹岡(みしょうりゅうささおか)
都古流(みやここりゅう)
雅(みやび)流(みやびりゅう)
山村御流(やまむらごりゅう)
容真御流(ようしんごりゅう)
龍生派(りゅうせいは)

いけばなの代表的個人作家(五十音順)
大塚理司
大坪光泉
大吉昌山
柿崎順一
粕谷明弘
假屋崎省吾
工藤和彦
栗崎昇
古作厚子
下田尚利
州村円芳
千羽理芳
谷口雅邦
長井理一
中川幸夫
早川尚洞
日向洋一
古川知泉
松田隆作
吉村華泉